今だから語れる阪神淡路大震災の体験

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今だから語れる阪神淡路大震災の体験

2017-12-10

このエントリーは、阪神淡路大震災の体験が書いてあるため、閲覧注意です。フラッシュバックを引き起こす可能性があります。

Contents

震災を語るとは

本日2017.12.10神戸新聞の朝刊に6面オピニオンに、「震災を語るとは」という記事が掲載されました。


神戸・メリケンパークにいま、「めざせ!世界一」と銘打ったクリスマスツリーが設置されている。
神戸開港150年を記念し、阪神・淡路大震災の犠牲者の鎮魂もテーマの一つだという。
(略)
被災体験を短歌にしていた人に一年ほど前、話をうかがいたいとお願いをした。
ずいぶんと悩まれたようで「大きな被害に遭われた方がたくさんいる中で、自分が震災を語るのは…」と遠慮されていたのが心に残る。
今年の「防災の日」の紙面では、地震を知らない大学生が述べていた。
「経験していない分、防災について考え続け、いつか子どもたちに「命の大切さ」を伝えたい。」

語ること、語れないこと、語ってほしいこと、ほしくないこと、気軽に語ること、学んで語ること。
被災から、間もなく23年。正しい「震災の語り方」は誰にも分からない。

震災を語り継ぐには、体験をしていない人たちに教えてあげる必要があります。
しかしながら、「わたしなんかの体験が人の役に立つなんて思えない。」などと考え、語るのを遠慮している方がたくさんおられます。
でも、震災を語り継ぎたいと考えている若い人たちは、震災のことをもっと知りたいと考えているのです。
今回の「世界一のクリスマスツリープロジェクト」では、鎮魂ということで、被災者の気持ちをいろいろ踏みにじっている面もあると思います。
しかし、震災についての議論を巻き起こすためのいいきっかけにもなりえるのではないでしょうか?

aya@221B @polyphonische さん
私は神戸に住んでいたことはないし、震災等自然災害の経験もない。
だからというか何というか、この件では、その部分についてはなるべく触れないようにツイートしていた。
語れることなど皆無なのに、わかったような顔をするのはあまりに失礼だと思ったから。
私は、命の危険寄りの身の危険、という経験はあるけれど、それは震災とは全く違う出来事だ。
被災体験については、想像するしかない。
想像しかできない。
想像したところで、想像でしかない。
だから無闇に触れられないと、そう考えていたのだけれど。
ハンターが何をしているのかを、改めて、というよりは、ようやく認識した。
想像しかできないからと、入り込みすぎてはいけないと、どこかで避けていた。
でも、やっとわかった。
これで断言できる。
こいつはだめだ。
本当にだめだ。
誰かこれを止められなかったのか。
多分初めて、怒りを抱いている。
今までは単に、好悪の感情という部分が大きかった。
これも結局、自分の体験と重ねているのかもしれない。
人の思いに勝手に乗っかっているだけなのかもしれない。

なので、あえて、このエントリを書きました。

私の経験を追加してほしい!という方があれば、追加いたします。
消してほしいという要望があれば消しますので、いつでもお申し出ください。

私の震災の体験

私も被災者の一人です。
当時の状況を語り、新聞に掲載させていただいたこともあります。
被災者の言葉を集めた、117つのことば という本も作りました。
震災教訓絵本「117つのことば」と製作者たち

当時の状況は、なんの罪もないアスナロの樹のためにできる事を考えよう。
にも書かせていただきましたが、ここにも再掲しておきます。

阪神淡路大震災当時、大学生だった私は下宿先のマンションで被災しました。
朝、ゴゴゴゴって音で目が覚めたすぐ後に、ドーンときて、グラグラ。

おさまってから外に出てみると、コンクリート造り以外の建物はほぼ崩壊
「ここに主人が埋まってるから誰か助けてー!誰か~!」
という声が横の家から。
もちろん、知らない人。
無視して逃げました。
友達を探しに行くと言って逃げました
若干20歳の私には怖すぎましたね。
人の命を左右する事態は私には重すぎた。

瓦礫から手だけが出ている。
引っ張り出され、助かった人も、けがをしたまま、血を流したまま、残りの家族を必死で助けようと瓦礫をのけようとしてました。
人力ではほとんど助けられるはずがありません。
自分の子供がそこにいるのに、声が聞こえているのに、助けられない無力さを体感した人は多数いる事でしょう。

停電していた電気が一時通電し、それがあだになり、火災発生がした模様です。
ものすごい火事が起きました。
瓦礫の中で、生きながら焼かれた人も多数。

救援物資が入ってきたのは夜です。
一番困ったのはトイレ。
冬、暖房もなく、丸一日を過ごし、みんな下痢になります。
不衛生な環境です。
しかし、流す水が無い。
トイレは山盛りです。
すぐにトイレは使えなくなります。
避難所は遺体安置所と壁一枚挟んだだけ。
異臭と鳴き声のなか、救援物資をもらいに並びます。
食べない、食べられない人は衰えていきます。

自衛隊は、船にあるお風呂を提供してくれました。
これが一番ありがたかったように思います。
お風呂は命の洗濯ができます。
みんなホッとできます。
ホッとしすぎた人は湯船で脱糞してしまいます。
すぐにお湯も使えなくなります。
それでも、寒さにはかないません。
みんなで大事にお湯を使います。

後で聞いたのですが、阪神淡路大震災の時、全国から、たくさんの義援金と支援物資が送られていたとのこと。
被災者である私はそんなこと全く知りませんでした。
生きるのに精一杯でしたから。

私にはこの阪神淡路大震災におけるトラウマがあるようです。

あの時何もできなかったっていうトラウマです。

そして、もし次に災害があれば、当時できなかった災害支援をしたい。たくさんの人々にいただいた恩返しをしたい。という想いを頭の片隅に置くようになりました。

東日本大震災の直後、私たちは神戸から東北への恩返しという事でKOBE元気玉プロジェクトを立ち上げ、ポートアイランドにあるゴルフ場に皆様からの「震災を経験したからこそわかる本当に必要な支援物資」を集め、20tトレーラーの運転手さんに義捐金ではなく「ガソリン代」を手渡し、行政が動くまでの間をつなぐため、民間でいち早く相馬、南相馬に支援物資を送りました。
詳しくは支援物資という善意が無駄になるケース

このような経験を通して、私の中では、恩返しが鎮魂と結びつくようになったのです。

皆様の震災体験と鎮魂への想い

一人目

二人目

三人目

世界一のクリスマスツリー‏ @bekobe150 さん
こころの傷をえぐられるし、初めてこの映像をみてから見ていなかったけど、このようなことがそこら中であって、これが現実で、この中にいた(このツイート、時間が経ったら消します)
朝だし人も少ないのでしばらくしたら消すけど自分語りを。私は15時間、倒壊した家からでられなかった。助けられたのは17日の夜になってから。
その間のことを詳しくは言わないし、書くともっと蘇ってくるし言いませんが、たぶんプラントハンター氏が初めて感じたという「命の危険」とは違うだろう「命の危険」をあの時感じてだと思う。
ああ、死ぬんかな、こわいな、こんな終わり?マジで?寒いな、ガスのにおいする、また揺れる、あかんやん、押しつぶされるやん、なんか足にささってる、あかんかもな、火事なったら終わりやん、意味わからん、息がしにくい、足いたい、重い
私が最初に感じたのは、命の危険じゃなくて、「命の終わり」だったなと。
私と私の兄弟はそんな感じで埋まってて、兄弟は17日のお昼過ぎに助けられて。私はもう少し時間がかかって。両親は外に出られていたし、ずっと私を呼んでたけど。なんだか圧迫されてたから返事も上手くできず。
いろんな人の協力で、その場所から出れた。命は助かった。でも自分のまだあたりには出られない人もたくさんいた。
救急車も来れないから出てもガレージのようなところで横たわってた。それからどれぐらいたったのか、きをうしなって、つぎに目が覚めたときは、さっきリンクを貼った中にも言葉で出てきてたけど「甲南病院」という病院に運ばれてた。左足がややこしいことになってて、応急手当的なことしてくれたようで
でもきちんとした手術が必要で、自衛隊のヘリコプターで別の病院に搬送されて手術しました。大丈夫です、今は普通に歩けてます。
家から出してもらって、ガレージに横たわってる時はしばらく意識もあったから色んなことが聞こえてきた。「○○さん、呼びかけても返事しはれへんしあかん」「あそこのおばあちゃんは手見えてるけどだせん」「火がくる」「また揺れた」
「あの家は家族全員埋まってる」「一番小さい男の子だけ出れてるけど、あとはあかんやろ。。」「どないせえいうねん、ほんま、なんやねん」。。。。そんな会話がたくさん聞こえてきたことを鮮明に覚えてる。
その前の日まで「おはよう」「こんにちは」「ええ天気やな」「おかえり、どっかいってきたんか?」と普通に声をかけてくれてた近所の人たちの多くが亡くなった。
私の家族が全員命が助かったのは本当に奇跡としか。
あの木を見てると、私が助けられるまでに埋まってた時のことをこれまでにないぐらい思い出して。生きてるのに、徐々に死に近づいて行ってるような感覚?そんな感覚。死ぬんだな、死ぬの決定的やん、嫌やけどそうなるやろな、でも怖い、嫌や、そんな感じのあの時の心の動きを。
近所のおっちゃん、おばちゃん、1本向こうの筋の家に住んでたおさななじみ、よくおつかいで行ったお店のおばちゃん、地震の前の日に父と近くの山にのぼってその時に偶然会った同じ町内のご家族、みんないなくなってしまった。同じ日に。
生き残ったことには何が意味があるのかな、なんで私は死なんかったんやろ、なんで助けてもらっただけで、だれも助けられへんかったんやろう、色んな感情は22年経った今でも持っていて。普段は心の奥にしまっていて、ここまではっきり言うことはないけど。
こんな感情を「僕も被災者なので」という免罪符とともに突然大きな木を神戸に持ってきたプラントハンターに無理やりひっぱりだされたわけで。いわゆるフラッシュバック。
そんな、感じです。彼は「被災者様」になっているのでしょうかね。強い言い方ですか「被災者様の俺が大木を持ってきたからお前らも木の命に思いを馳せて追悼しろよ。鎮魂の思いをもてよ」と言われてる感覚。だから受け入れられないのかもしれない。
あ、この私が自分がたりをしたことで、当時の辛い記憶を思い出させてしまった方がいらしたら心の底から謝ります。本当にごめんなさい。。。
神戸だけでなくて様々な自然災害で被災された方のこころを良くない方向にしてしまったとしたらごめんなさい。

今日は神戸は冷たい雨の日でした。ルミナリエが始まります。

四人目

mem no koe @mem_no_koe さん
私も、祖父の時、会社と戦って休み取り上げられて監視されて入院知らされても会いにも行けず………危篤をしらされ結局間に合わず。
涙をこらえて移動してた時、必死で想いを振り絞っていたら、ある人にブロックされた。
その人も多分祖父を亡くしたばかりだったからと言い聞かせた。
あの正月は、身の振り方が決まっておらず予定立たずでもちろん帰省というか祖父母の元にいけず。
今でも辛いときに「GWも帰ってこられへんのか………?」と電話の向こうで寂しそうにしていた声がよみがえってきて、その度に悔しくて悲しくて胸がよじれてどうしようもなくなるのだ。
大往生でも、これだからな。
血縁も年齢も関係なく 「相手が自分にとってどれだけ大切な人物だったか」という度合いで決まる。
私の場合は、長年引き裂かれていて、その一年前に療養目的で祖父母宅に間借りしてようやく水入らずで数週間過ごした思い出がなければ私は立ち直れなかった。

自重すると言いながら、またタグつけます。
ごめんなさい。
22年の歳月では悲しみは癒せるものではないけれど。
少なくともその歳月の分は「私達は大人になった」。
大人には大人の「たたかいかた」があります。
「戦う」のではなく「闘う」のです。
もちろん、私は「地元外」に住む、お金も名前もなにも持たない非力な部外者です。
想像力を働かせたつもりでも、寄り添っているつもりでも、実は何もわかってない人間です。
それでも、今は皆様のそばにいさせてください。
もしそれで、孤独な誰かの支えになれるなら……

五人目

風猫 @wildlinx_  さん
私も同じです。 助けられなかった後悔の念は今尚、薄れる事も消える事もありません。 忘れたいと思った事もありません、寧ろ忘れたくない。 人生としてけして短くはない22年と言う月日は 『過去の出来事』ではないんですよね

六人目

七人目

世界一のクリスマスツリーに心動かされた話

八人目

 角南様
わたしは被災者ではありません。
神戸生まれの神戸育ち、兵庫区(10年)垂水区(2年)中央区(17年)のあと一時的に長野県にうつり8年過ごして現在は中央区住まいです。
震災の朝、いつものように7時にテレビをつけたら見慣れた山の風景に 倒壊した阪神高速道路が倒壊している画面でした。親も親族もみんな神戸なので、すぐに電話をかけたけど繋がらず、家人は起業したばかりでしたが仕事を休みその日のうちに神戸に立ちました(エピソードは数ありますが割愛)。私は3歳になった娘がいて足手まといになるのは目に見えているのでどうすることもできず自宅待機。 すぐに食べられるものだけをコンビニで買ってきて テレビをつけたまま仏壇の前で泣きながら祈り、公衆電話はつながるという情報を得たので 子供の手を引いて地元の公民館まで公衆電話を掛けに行き、繋がらないことに呆然とし、家に戻ってはまた祈る‥の繰り返しでした。親と連絡が取れたのは3日後です。
結果的に 親も親族も家が半壊してても体は無事で、地域的なものなのか友人知人たちもみな無事で、恵まれていたとしか言いようがありません。
震災のときに神戸にいなかったくせに・・と言われることもありますが、「震災の日何してた?」と聞かれたら「遠く離れた場所でコンビニのおにぎりを食べながらずっと祈ってたよ」と答えています。仏法者は弱い人困っている人に同苦し祈ることができるのです。
離れてもなお神戸は本当に愛しい恋しい町でしたが、私の知ってる神戸ではありませんでした。住んでいる人には申し訳ないけど 六甲アイランドの違和感、ハーバーランドの違和感、アスタくにづかの違和感、どうしてこうなってしまったのか。
それでも 支援している公明党の推薦もあり、久元さんには期待をしていたのに。
メリケンパークに誘致されたのが何故スターバックスなのか。
上島珈琲でも にしむら珈琲でも 日米珈琲でも uコーヒーでも 神戸にはコーヒー屋がなんでもあるやん!という怒り。そして今回のツリー。
氷見に友達もいることから すっかり神戸がキライになりそうなとき そんな浅い次元ではなくもっと深く傷ついている人がいることを知り、ツイートを追いかけています。

ちなみに ツリーを見に行きたいのですが ただいま絶賛介護中。
震災のとき 地域の人のために1日に何度もリュックを背負ってフラワーロードの支援物資をもらいに行き、動きに動いていた母親も進行性の難病には勝てませんでした。
特にこの1か月ちょっと 私のライフワークである朝30分の新聞配達と徒歩5分圏内のコンビニと郵便局以外には出かけてません\(^o^)/
みなさんの臨場感あふれるレポートにさらなる怒りを燃やしています。

九人目

今私が何で花扱ってるか言いたくなかったけれど言います。
贖罪です。
だから寺社仏閣に花献花してるのです。
何も出来なかったその謝罪です。
本当に言いたくなかったけれど、まさかここで西畠と似たような仕事でこうなるとは。
本当に悔しいです。
前日夜勤に入って、消灯なのにTV見てる人に「寝なさいよ!」と笑いながら言ってた訳ですよ「寝れへんねん、あっつ~いお茶くれへんかな?」って言うPt(患者)さんに言われてお茶淹れてあげて何事もなく過ごしたその明け方ですよ。
十数台の巨大なダンプが押し寄せてくるような音がしたのは
それと同時にチャート板やら用意した点滴や注射が一気に作業台から吹っ飛んで、慌ててガス栓締めに行こうとしても立てないんですから四つん這いで進むしか無かったですもの。
頭上に物落ちてきてもガス爆発させたら最悪だから何とか締めにいきましたよ。
真っ暗だし、徐々に寒くなってくるし小さい呻き声が聞こえても足場悪いからゆっくり歩くしか出来ないし。
歩くって言っても非常用の懐中電灯飛んで無くなってるから感覚で歩くしかなかったし。
最初の病床にたどり着いた時に唖然としました、ベットの下敷きになってる患者さんや床に激しく叩きつけられて
一切動かない所かIVHが抜けて動脈から血が流れ出て大変な事になってたり・・・
ドクターすらも手が回らない、他病棟の看護師も手がすくないから何も出来ない。
そんな日を何日も過ごした訳です。
当然日勤の看護師さんは出勤すら儘ならない状況じゃないですか。
#半殺しの生木 、言われて反論出来ません。
ただ一言だけ言わせてください。この #半殺しの生木 の文章を書かれた #純丘曜彰 さんに、心から深く感謝申し上げます。
もう何も言う事はありません。
ただ後は私の成すべき事を成すだけだとしっかり見据える事が出来ました。
陽は明日も昇ります。

食事は救援物資が届いて何とかなろうものだが、環境衛生で排泄臭や死臭と隣り合わせの日々を神戸市民は強いられた訳です。
だからこそ鎮魂は非常に重いのです。
軽率な物じゃありません。
今でも夢で魘され怖さで起きます。
私のケーシーを血まみれの手で掴んだまま息絶えてた老人。
今迄左程言う事も無ければ、又ここまで書く気にも成らなかったです。
当時のドクターも看護師も触れたがらない話ですし、何より自責の念が各々には有る。
ましてや市民は救援したくてもどうしていいか解らないじゃないですか、オロオロしながらも隣では圧死した人が居る環境でした。
私看護免許持ってるんですよ、救命出来るんですよ。
なのに何もできなかったんですよ!悔しいんですよ今でも。
それをあんな簡単な「鎮魂」だと言って #世界一のクリスマスツリー でニヤニヤされて、気分いい筈がないじゃないですか。
あの #半殺しの生木 を読んで自分自身が磔刑に遭った感覚でした。
当時の現場に居て、どうしようにも出来なかった人等も、まだこの神戸には居ますからねぇ・・・
#半殺しの生木 、私はその通りだと思う。
何故なら現場に見て居ながら何もできなかったんですから。
以前にも呟いたけれど、#世界一のクリスマスツリー がやはり彼等の磔刑になった。
罪は深く重い。
病院に運ばれてくる上半身潰れた方・・・ただ「生きて何とかせなあかん!」しか考えてなかったですから。
永眠者への冒涜行為を平気な顔で出来る #世界一のクリスマスツリー の企画者達を、私は一生許さない。

参照:なぜ神戸に半殺しの生木を吊してはいけないのか

十人目

2017-12-02
■おちこぼれ震災被害者は死んで切り刻まれないと世界一になれない

神戸のクリスマスツリーの件

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1711/30/news142.html
木は伐採されるのはよくあることだし、その後の再利用もなんとも思わなかった

 でも「おちこぼれの木」は殺されて、見世物にされることで「世界一の木」になるという言い方に胸が苦しい
自分は学もなく、金もなく、フリーターでこつこつ働いている低収入独身で、世間で言う「負け組」「おちこぼれ」
おちこぼれはそのままの姿で輝くことは出来なくて、切り刻まれ、殺されることでやっと世界一になれると言われている気がした
俺のような奴は、さっさと死んで臓器提供でもしろ、と言われているのかと
おちこぼれな自分でも「必要なんだよ」と言ってくれるのが、優しさなんじゃないのかな
鎮魂ってそういうことなんじゃないのかな
震災で親を失い、極貧の生活に陥った「おちこぼれの阪神大震災経験者」の俺は、浮かれてるこのイベントが本当に嫌だ
親が死んで、辛くて、泣きながら必死で生きてきた。たしかに金はないし、彼女もいないけど、世間でおちこぼれでも、親の分も一生懸命生きよう、ってずっと思ってた
でもさ、このイベントのあすなろの木は、檜になれない落ちこぼれで、そんなあすなろでも殺して飾れば立派になるっていってるんだよね
鎮魂のイベントで、死ね、と言われるとは思わなかった

詭弁なのは分かっていても、鎮魂の名をつけたイベントなら「おちこぼれなんて世の中にはいない」というべきじゃないんだろうか

けものはいるけどのけものはいないのにさ
https://anond.hatelabo.jp/20171202201555

十一人目

十二人目

被災者ではない六月(むつき)さんの体験


その日はいつもの通りギリギリまで寝て、TVなんか見ないまま、ただ着替えただけで学校に行ったので、関西が地震にあった、と聞いたのは、同級生だか、誰だかから聞いただけでした。
で、放課後、用事があったので、母校の職員室に行くと、職員室のTVに、その場にいた教師や生徒がとても厳しい目を向けていました。
そして私もTVを見ると、あたり一面、火の海でした。 たとえを出して申し訳ない気分ですが、ナウシカでこんなシーンがあって、しかもそれが現実に起こってるのかよ! と、呆然と立ち尽くしてしまちました。
当日の午後3~4時頃の、ヘリからの空撮でしたが、妙に暗かった。
そんな中、元担任の先生に頼まれごとをやり、お礼に給食で余った食パンを、その場で開封してもっちゃもっちゃしながら、 職員室にいる人全員で、食い入るように中継を見ていました。
(パン食べながらで不謹慎だな、と思ってました)
それが一番、阪神大震災で印象的な出来事でした。
それを、16年後の気仙沼、更に6年を経たツリーの件と、2回思い出すとは思いませんでした。
内容のない思い出話ですみません。
#世界一のクリスマスツリー

十三人目

forget-me-not‏ @fmn_jpnさん

今回のことで、はっきり分かりましたよ。被災地では、地元の行政や団体以外が催す鎮魂イベントはいらないってこと。
絶対にしてはいけないということ。
東北でも熊本でも。
今でもヘリの音や救急車のサイレンには不安と恐怖を引き起こされますよ。
10年位前までと比べたら大分ましだけど。
ヘリの音は特にいや。
一晩中聞こえてたんだから。
震災の日の夜は冷え込んで、晴れた夜空に確か満月が上がっていた。
夜も空もお月様もこんなに美しいのに、神戸ではなんてことが起こってるんだろうと思った。
避難させて貰ったお宅は新築で少しの損壊ですんでたけど、そこも周りはすべて全壊だった。
次の日の朝は小雪が舞っていた。
コンビナートでガス漏れか何かがあり、付近の人達は2号線より山側への避難指示かがあったようで、明け方に着の身着のままで公園とかで立ちすくんでいた。
毛布に包まって逃げてきた人もいた。
あの人達の姿は今でも忘れられない。
私の家の周りも日本家屋は全滅だったよ。
マンションも500m位離れたところは一階が崩れたり傾いたりした。
あるマンションでは、次の日の午後になってもまだ救助が来なくて近所の人がただその前で立ちすくんでいた(幸い、隙間が有ったので生存はされていた)。
移動をするにも道は瓦礫で塞がれていて、
もしかしたら何日か何時間か前までその下に亡くなった方がいたかもしれない瓦礫の上を踏み超えて行くしかなかった。
私は誰かを見殺しにしなかったか、誰かの悲しみの上を土足で歩き回らなかったか、全ての被災者は多かれ少なかれこういう悔いと罪を背負ってると思う。
だから、極端なこというと、犠牲者の鎮魂とか思いを寄せるとかの陳腐なイベントとかなんとかは必要ないんですよ。
被災者は一生忘れることはない。
一生その悔いと罪を背負って生きていくのだから。
絶対に忘れることはないんです。

十四人目

ウォンキー・プー 様

まず最初にお断りしておきますと、私は阪神淡路大震災において非常に軽微で取るに足らない被害しか受けていない被災者です。
実家は阪神間ですが、神戸市内ではありません。
家屋は半壊しましたが、避難所に行かずにずっと自宅に住み続けることが出来ました。
食料、トイレットペーパーなどの買い貯めがありましたので、当座の生活必需品はどうにか間に合いました。
家族、親戚は誰一人死にませんでした。
ガス、水道の復旧には2ヵ月以上かかりましたが、電気だけはその日の午前中につきました。
当日たまたま他所の地域に泊まっていた家族が塞がれた道路をあちこち迂回しながら深夜に家に辿り着いたので、救援物資が届く前に水、給水用のペットボトルが少し手 に入りました。
怪我をしたのは私だけで、命には別状はありませんでした。
つまり私の被災体験は基本的にはわざわざ語るだけの値打ちも、他人様に聞いて頂く値打ちもありません。
被災者を名乗るのが恥ずかしいぐらいのレヴェルです。
本当に苦労した方々に対して申し訳ないぐらいの些細な体験です。

あの震災の年の8月に私は日本を出ました。
その後ずっと今に至るまで海外在住です。
あの震災のことはこれまでは日常生活には何の痕跡もとどめていませんでした。
1/17が来ても、人に言われたりニュースの見出しを見なければ全く思い出さないこともしばしばでした。
ルミナリエを実際に見たこともありません。
PTSD、フラッシュバック、閉所恐怖症、トラウマ、何も経験していません。
それは私の精神が人に比べて殊更強いからではなく、そんな深刻な症状を発症する程大きな被害を受けていないからだと思っていました。
年々観光イヴェント化していくルミナリエ(しかも地元の人達には大してメリットをもたらしていない)という批判を目にするにつけ、もうそろそろ止めてもいい頃合ではないかとも考えていました。
悲しいことですが、あの震災以来、海外ではスマトラ沖大地震、ニ ュージーランドの地震、国内では中越、東北、熊本等、更に自然の猛威を感じさせる大災害が世界中で頻発しています。
天災だけではなく、テロや戦争、難民問題で苦しむ人の数も増えるばかり。
そんな中いつまでも過去の悲劇に拘っていても仕方がない。
どんなに嘆いてもあの震災で失ったものはもう二度と戻ってはこないのだから、前を向いて進んでいくしか生き延びる道はない。
たとえそうした思いが傲慢であるにせよ、誤解であるにせよ、私個人としてはとにかくそう考えてあれから今日まで何とか震災の影に脅かされることなく生き延びてきました。

糸井重里に関する否定的なコメントをツイッター上で見かけたのはつい先月のことです。
正直まだいたのかと思ってすぐ忘れました。
しばらくして世界一のクリスマスツリーなるものに関して「神戸を舐めるな」という発言を目にしました。
また神戸のしょうもないイヴェントの一つかと思って、大して気にとめませんでした。
平尾 剛さんの記事を拝読したのはその後でしたが、クリスマスツリー?鎮魂?何の関係が?と思っただけで、追求しませんでした。
特に検索しない限り大概の余計なことは知らずに済むというのは、海外暮らしの大きな特権の一つです。
けれど実家に電話した時、情熱大陸 だのバングル販売だの何だか妙な話を聞いて、興味を持って検索したのが運の尽き。
「輝けいのちの樹」というたった一言の安っぽい コピーの恐るべき破壊力を身を持って体験することになりました。
世界一のクリスマスツリーという欺瞞的なプロジェクトに今の生活を滅茶苦茶にかき乱された人々の声を読み、22年経って初めて私はあの地震のせいで泣きました。
テレビや雑誌の記事で、他の被災者の方々の悲惨な状況を見聞きして泣いたことはあります。
でも自分自身の被害を思い出して泣いたことはこれまで一度もなかった。
とにかく後片付けに忙しく、余震の恐怖をかいくぐって生き延びるのに必死で、あの時の私には自分の置かれた状況を悲しいと感じたり泣いたりする暇もありませんでした。

あの朝私は夜明け前突然西の方角から聞こえてきた轟音で目が覚め、咄嗟に頭から被った羽根布団のおかげで助かりました。
倒れてきた家具と顔の上にまともに落ちてきた人形ケースのガラスの破片に埋もれて、自力で動くことが出来なかった。
布団の中で息苦しさに襲われパニックになって叫んだ時、家族が布団の外から冷たい手を差し入れてぐっと私の手を握ってくれ、それでやっと落ち着いて救出を待つことが出来ました。
家具に挟まれて動けなかった時間は、本当はそんなに長い間のことではなかったような気がします。
たっぷり一分は継続したと感じられたあの激しい揺れが、実際には20秒足らずだったように。
もしあの時あそこで火災が発生していたら、もし布団の真横に倒れていたタンスの位置がもう10センチ頭の側 にあったとしたら、私も確実に6435人目の死者として数えられていたことでしょう。
私が助け出されてから近所の人が匂いに気付いて声をかけてくれるまで、ガスはずっと漏れていたままだったのです。

これまで私は自分がひょっとしたら圧死していたかも知れない、ガスに引火して生じた火災のせいであのまま意識はあっても身動き出来ないまま灰になっていたかも知れないとは何故か一度たりとも考えたことはありませんでした。
現実に私は助かって、たまたま外泊して助かった者も含めて家族はみんな無事で、半壊とは言え自宅にとどまることが出来た自分は幸運で、何の心理的影響も受けていない筈だった。
でも本当は私が生き延びることを当然とするような確実な保証は何もなかったのです。
亡くなった方々と生き残った私の生と死の間を隔てる壁は、これまで信じていたよりも遥かに薄くもろいものでした。
だからこそ、あの陳腐なコピーは私の心をあれ程鋭く突き刺し、無意識のうちにこれまで考えないようにしてきたいろんなことを一気に思い出させたのだと思うのです。

不思議なことに激震地の火事のことは全く何も覚えていません。
あの日ニュースで見ていない筈はないのですが、記憶に残っているのは新聞に掲載された何もない焼け跡で涙ぐむ住民の一枚の写真だけです。
ヘリコプターの音もときどき聞こえていたように思いますが、それもよく覚えていません。
何度となく起こる余震。引っくり返った家の中を一室でも寝られるように整頓しようとする努力。
崩れ落ちた高速道路や生田神社の映像を見て唖然としたこと。
断片的な記憶はかなり鮮やかですが、間、間が飛んでそこは全くの空白になっているのです。

ガラスの人形ケースが落下した衝撃で唇を切った以外無傷だった私は、その日のうちに駐車場に生じた10センチ程の幅の地割れで転んで腕を強打し、その後全く左手を使えない状態が何日か続きました。
高齢者と病人を抱えた大人の女性ばかりの家族はどんなに節約しても使う水は多く、一番若い私を含めて動ける者は往復何十分も歩いて水を運んでこなければなりません。
最初は水用のタンクもなく、とりあえずありあわせのペットボトルなどを総動員して一日何往復もしました。
もちろん困っている他人様を助けたり手伝ったりする余裕があるはずはありません。
家の中で割れたものを片付けるだけでも何日もかかりました。
潔癖症とは 言え緊急時ではそんなことは言っておられず、スニーカーを履いたまま家中を歩き回る生活。
その時の絨毯は修理の際も張り替える余裕がなく、あちこち擦りきれたままいまだに我が家に敷かれています。
2ヵ月以上水が出ず、やっと蛇口から水が使えるようになっても今度はガスが出ず冷たい水で洗い物をしました。
それでも水道が復旧した時は割れ残った食器をきれいに洗って戸棚に収められるだけでとても嬉しかった。
たとえ戸棚の中が悲しい程スカスカになっていたとしても。
毎日が生活を建て直すための努力の連続。
それでも体育館に寝起きしなくても済んだ私達一家は運がよかったのです。

あの当時私と家族の神経に一番障ったものの一つは、瀬戸内寂聴の出演するテレビCMでした。
清潔な袈裟といつでもお風呂に入れる者特有のつやつやした顔で微笑しながら出て来て「皆さん、頑張りましょうよ」と言われる度、みんなで「うるさーい!!あん たなんかにそんなこと言われたくないわーい!!」とヤケクソで喚きました。
十分頑張ってるじゃないですか。
いつまで待ってもガスも水道も復旧されず、最寄駅は不通になったまま、当然何週間もお風呂に入れずに、毎日近くの神社や給水所で水汲みをするのにくたくたになり、よそから来た若いヴォランティアに必要以上に偉そうな口を利かれながら(勿論そんな人ばかりではないのでしょうが、私の近所の人々は神経がささくれ立っていたせいかしょっちゅう怒っていました)、なるべく人に頼らずまた実際頼るべき人もいないまま、一日も早く生活を元 通りに戻そうと必死になっている。
それなのにこれ以上何をどう頑張れと言うのかと。
経験したことのない方はたかが水汲み程度の苦労で何と大袈裟なと笑われるかも知れません。
しかし真冬の水は冷たく、汲んだ水を自宅まで運ぶのは重く、着衣や靴にかかった水はいつまでもじっとりと濡れたままで、アパートにお住まいの高齢者世帯などでは、痛む足腰で階段を昇り降りしてトイレの水はおろか日常生活に最低限必要な量を運び上げることすら想像を絶する負担だったのです。
「力強く復興に向けて立ち上がる被災者」と美談仕立てで報道されることもとても嫌でした。
私達は誰も力強く立ち上がったわけではありません。
理由が何であれとにかく生き残ってしまった以上は、どんな環境にあっても生き続けていかなくてはならず、また守るべき家族がいたから、嫌でも立ち上がらざるを得なかっただけです。
出来ることなら、あの時あのままガラスの破片だらけになった布団の下で落ちた高速道路も崩れた家屋も何も見ないままずっと寝ていられたらどんなに楽だったことか。
でも死に損なってしまったからには、そういう訳にはいかなかったのです。

一番許せなかったのは、あの震災の後専門家、学者と称する人達がたくさん出てきて、「いや、本当は関西にも地震は来るんだよ」と手の平を返したように言い始めたことでした。
私の周囲ではそんなことは誰一人として聞いたことはなかった。
関西には台風は来るけど、地震は来ない。
それは誰もが機会ある毎に繰り返し口にし、心から信じていたことでした。
だから震災の前、小さな地震が何度も来て「最近地震多いね」、「嫌やね」、「変やね」と気味悪がりつつも、結局は「でも関西には地震は来うへんからね 」と馬鹿の一つ覚えのようにのんきに笑っていられたのです。
多分知らなかった私達が無知で愚かだったのでしょう。
でもその代償を私達は身をもって支払うことになりました。
専門家も学者も所詮安全な場所からの高みの見物でした。

今回のクリスマスツリーのことで、言うべきことは既に平尾さんを始めとする皆様が言い尽くして下さっているような気がします。
有川浩さんが『神戸「世界一のクリスマスツリー」 について個人的に思うこと』の中で仰っていたように、震災の時他所にいた私の家族は自分は直接震災は体験していないからと思い、私は私で地震は経験したけれども町内以外一番被害の大きかったところは見ていないと思い、遠くにいた人でも家族や親しい人を亡くした方は私達よりもっと辛い思いをされたでしょうし、激震地におられた方は亡くなった方々に比べれば生きているだけでもよかったと思っておられるかも知れず、要はあの大震災を経験した人はみんなそうやって自分よりもっと大変な方々がおられるのに被災したというだけでドヤ顔は出来ない、してはいけない、したら申し訳ないと感じてお互い遠慮し無言のうちにいたわりあいながら生きてきたと思うのです。
あのプラントハンターと称するイカサマ師が自分も被災したから鎮魂する権利があるのだなどと言い出すまでは。
あんなことを公の場で発言する者は、これまで神戸にはいなかったはずです。
しかも散々嘘八百を並べた上に、金儲け目的で。

あの人物に乗っかった広告屋や提灯番組制作者、マスコミ、そして誰よりも彼に許可を与えた神戸市長はもっと許せません。
有川さんがここでとどまってくれればよかったと私は思います。
けれど、彼女がその後発表した『続・神戸「世界一のクリスマスツリー」 について個人的に思うこと』は、あれ程多くの方々が賛同し救われたと感謝しているのにも関わらず、何故か私の気持ちを救ってはくれませんでした。
「それでも、私は、赦さねばならないと思います」。
他でもないこの一言のためです 。

有川さんがそう思われるのは自由です。
それはいい。
でも何が故に被災者は「赦さねばならない」とまで、(たとえ同じ被災者同士で あったとしても)赤の他人に要求されなければならないのでしょうか?節度を持って怒りをコントロールしなければならない。
それは分かります。
怒りを行動に向けてもならない。
それも理解出来ます。
現実に糸井も西畠も何度となく神戸市民の前で公開トーク等を行ったにも関わらず、聴衆は少なくとも表面上は礼儀をもって彼らを遇しました。
いかに内面が怒りと軽蔑で沸き立っていたとしてもです。
それでもまだ足りなかったのでしょうか?
被災者は自らの内 面まで他人の意に沿うようにコントロールし、何をされても言われても赦さなければならないのですか?
ヴォランティアが来ればどんな態度を取られてもひたすら「感謝しろ」。
無礼なマスコミが傍若無人にマイクを突きつけても冷静に受け答えしなければならない。
無神経で欲ぼけした輩が金儲けと自己満足のためにとっくに乗り越えたと思ってきた過去を無理やり引きずりだしてきてそれに抗議すれば傷つき易い精神疾患だと馬鹿にされても、ツリーを見て「わあ 、なんて」と喜んでみせなければならない?
どんな愚劣なイヴェントもコメントも、鎮魂のためという免罪符をつけられれば、全て笑って感謝し受け入れ、それが無理ならせめて赦さねばならない?
それでは 過去22年間に身体的、心理的、経済的試練をどうにかこうにかやり過ごしてきて何とかここまで生き残っただけの甲斐すらないというものではありませんか。

もし有川さんが赦す努力をして、ご自分は赦さねばならないと考えられるならそれは素晴らしいことです。
そう発言出来る彼女は偉い。
でも、少なくともこの私はそんな立派な人間ではありません。
ガンディーでもキリストでもありません。
「明日はクリスマス・イブです。キリスト教で尊い赤ちゃんが生まれた日を、信者の皆さんが祝う前夜祭です。怒りや憎しみを暴走させないため、自分の心の平和を守るために、疲弊した方々が問題から距離を置くには最もふさわしい日ではないでしょうか。」と言われた所で、そもそもキリスト教徒ですらないのです。
それなのに、一体何が故に被災者は被災していない人達よりももっと我慢強く、寛容で、強く、いつも礼儀正しく、赦しの心に満ちていなければならないのですか?
偶然あの日あの時あの場所で、私達の意識の中では絶対に来る筈のなかった大震災に遭って生き残ったというだけで?
私はそんな風に自分の内面にまで踏み入って来られて好き勝手に指図をされたくはありません。
たとえそれが善意であっても誰にでもです。
何故なら私は好むと好まざるに関わらず自分の心を持って生きている生身の人間だからです。
あの時死に損なって、それでもまだ意地汚くこの世に生きている人間だからです。

被災者は何も自分が限りない善人だと勘違いしていい気になっているから、声を上げている訳ではありません。
古傷を無神経にえぐられて、痛いから、苦しいから、辛いから、耐えきれずに止めてくれと声を上げただけです。
善悪の問題ではありません。
純粋に心情として我慢出来なかったからに過ぎません。
それだけのことに何故善悪などという壮大な問題まで引き合いに出されなければならないのでしょう?
何故広告ややイカサマ師に対してこのように無遠慮に突然傷をえぐられなければいけないような悪いことは何もしてこなかった筈の被災者が、翻って己の善悪まで顧みるようにと苦しみと怒りの中で自己反省までも強いられなければならないのですか?
愉快犯に通り魔に遭った被害者に対してあなたは完全な善ではなく、加害者もまた完全な悪ではないと告げるようなものです。
全くいい度胸です。
あるいは加害者は前に過去に何らかの功績を残していたかも知れない。
今ここで胸をえぐられて血を流している人間達にとって、それが一体何だと仰るのですか?

本来対立する筈のなかった善意の人達が、この問題のせいで対立を起こした。
それは確かにそうかも知れません。
しかし敢えて誤解を恐れずに言えば、私は対立が起きたってそれはそれでいいじゃないかと言いたいのです。
こうしてお互い生き延びて、生きているからこそ、一人一人が自分の意見を言って堂々と対立することが出来る。
あの時亡くなっていれば、私達には今そんな些細なことさえ出来なかった筈です。
「輝けいのちの樹」 というぺらぺらのコピーに「鎮魂」された死者、世界一のクリスマスツリーをワクワクして待つ神戸の人達、まるで自分の手柄ででもあるかのようにイカサマ師によって「完全に復興した」と宣言された神戸、イカサマ師のパフォーマンスに喜び感動し感謝する神戸市民と被災者達、嫉妬しあら探し冷笑する人々。
このように外から押し付けられ、そのように振る舞うよう期待され、時にはマスコミを通じて強要さえされた他人が勝手に作りあげた虚偽のストーリーに「NO!」と声を上げる尊厳。
生きていればこそ、私達にはそれが出来る。
だからこそ、私個人は「赦さなければならない」というキリストや仏のような有難いご託宣にも、敢えてはっきりと「NO !」と言います。
赦す、赦さないを決めるのは私の権利です。
生き残った人達皆が等しく合わせ持つ権利です。
そこに最低限のマナーと可能な限り相手を尊重しようとする意思が存在する限り、被災者は善悪を巡る空虚な形而上的議論やお天道様、神の子が生まれた夜など他人の宗教感に絡め取られることなく、自由な意見を交換して 、その結果生じる対立からも何かを学び取っていくことが出来る筈だと私は信じています。
ただ対立を回避したいという理由だけのために、誰かが自分の心を一方的に無理に押し殺し、妥協することで生まれる不自然な和からは、ポジティヴなものは何も生じません。

少数意見かも知れませんが、そしておそらく有川さんも、有川さんの言葉に救いを見出だした方々のお気持ちも害することでしょうが、それでも尚、私は今生きている人のためではなく、あの時亡くなった人達のためにこの文章を書いています。
何故なら、もしあの時あの場所で死んでいたとしたら、私もまたあのツリーに鎮魂の名目で祀られる一人だったのですから。
そうすれば、どんなにあのツリーそのものに苦痛を感じたとしても、死者である私の抗議の声はきっと誰にも届かなかったでしょう。
ならば、少しでも声を上げてNO!と叫ぶことは、あの時生き残った者にしか出来ないのです。
どんなに嘲笑され、誹謗され、後ろ指を差され、対立を煽ると非難を受け制肘されたとしても。
今から思えばあの時美しかった過去の神戸の街と一緒に私自身の一部も死んだのです。
その事実を嫌でもこの目の前に突きつけたのが、あのコピーであり、クリスマスツリーでした。

同時に私はこうも思います。
22年前には今ほどインターネットは普及しておらず、一般人が声を上げようと思えば新聞や雑誌の投書欄ぐらいが関の山でした。
怒りにしろ悲しみにしろ、私達には現実の人間関係の中で消化するか自分の心の中に黙って封じこめてしまうしか選択肢がなかった。
ならば一生に一度くらいは善意であれ悪意であれ金儲けのための口実であれ、もう誰にも自分の内面には立ち入って欲しくないと発言した所で許されるのではないかと。
私個人は今後もう二度と震災のことについて口を開くつもりはないのだから。

正直私はあの木そのものについてどうこう考える余力はありません。
とにかくあの場所から消えてくれた。
それだけでほっとしています。
ただ有川さんには被災地以外に帰れる場所があります。
私には被災地の他ふるさとはありません。
1995年1/17以前にあったふるさとは、たった20秒足らずの間に瓦礫の中に消え去って、どんなに復興が進もうとあの時あった街並み、空気、そこに住んでいた人々の精神、コミュニティは二度と戻ってこないのです。
神戸に帰りたいと泣きながら、遂に戻って来られないまま他所の土地で亡くなった方も大勢おられます。
その神戸にイカサマ師は「完全に復興した」と主張して、あの醜悪なオブジェを公共の場に立てました。
私にとっては、それが今回の騒動の総てです。
22年前のことは天災です。
誰を恨んだ所で仕方がない。
しかし今回のこれは人災です。
私達の上に振るわれた故意の暴力です。
そして暴力を振るった側は薄笑いを浮かべて、苦しんでいる人達を繰り返し愚弄し続けているのです。
完全な善も完全な悪も過去の業績も疑わしきは罰せずの善意も、私の中には考慮する余地は一切ありません。
とにかく赦すも赦さないも、怒るも怒らないも、私の内面のことはもう放っておいて欲しい。
鎮魂のためだろうが、善良な人が疲弊しないためと称されようが、おためごかしはもう止めてくれ。
ただそれだけです。

いろいろ嫌なことを書きましたが、心から被災者を元気づけようとして下さった氷見の皆様、そして結果的に騙されてこの下劣なプロジェクトに協力を余儀なくされてしまった心優しい方々。
本当に感謝しております。
もし私の不用意な言葉に傷つけられたとしたら、どうか許して下さい。
こんなことを一切書かずに黙って済ますことが出来たらどんなによかったことかと思いますが、どうしても書かずにはおれませんでした。
もし傷ついた方がいらっしゃれば、その罪は私が残りの人生を通じて自分の背中に背負っていく覚悟です。
最後になりましたが、こうして私の思いを発表する場を提供して下さったいいな様、そして私などより遥かに長く真剣にこの問題に関わって情報を提供されてきた皆様に心より御礼申し上げます。

関連エントリ

世界一のクリスマスツリーがヤバい
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コメント


  1. 角南リエ

    ツイッター・・既存のアカウントを使ってしまい失敗したなと思っています。
    普段はFacebookがメインです。
    チャチャを入れたりふざけたコメントが多く、怪しさ満載でごめんなさい。
    わたしは被災者ではありません。
    神戸生まれの神戸育ち、兵庫区(10年)垂水区(2年)中央区(17年)のあと一時的に長野県にうつり8年過ごして現在は中央区住まいです。
    震災の朝、いつものように7時にテレビをつけたら見慣れた山の風景に 倒壊した阪神高速道路が倒壊している画面でした。親も親族もみんな神戸なので、すぐに電話をかけたけど繋がらず、家人は起業したばかりでしたが仕事を休みその日のうちに神戸に立ちました(エピソードは数ありますが割愛)。私は3歳になった娘がいて足手まといになるのは目に見えているのでどうすることもできず自宅待機。 すぐに食べられるものだけをコンビニで買ってきて テレビをつけたまま仏壇の前で泣きながら祈り、公衆電話はつながるという情報を得たので 子供の手を引いて地元の公民館まで公衆電話を掛けに行き、繋がらないことに呆然とし、家に戻ってはまた祈る‥の繰り返しでした。親と連絡が取れたのは3日後です。
    結果的に 親も親族も家が半壊してても体は無事で、地域的なものなのか友人知人たちもみな無事で、恵まれていたとしか言いようがありません。
    震災のときに神戸にいなかったくせに・・と言われることもありますが、「震災の日何してた?」と聞かれたら「遠く離れた場所でコンビニのおにぎりを食べながらずっと祈ってたよ」と答えています。仏法者は弱い人困っている人に同苦し祈ることができるのです。
    離れてもなお神戸は本当に愛しい恋しい町でしたが、私の知ってる神戸ではありませんでした。住んでいる人には申し訳ないけど 六甲アイランドの違和感、ハーバーランドの違和感、アスタくにづかの違和感、どうしてこうなってしまったのか。
    それでも 支援している公明党の推薦もあり、久元さんには期待をしていたのに。
    メリケンパークに誘致されたのが何故スターバックスなのか。
    上島珈琲でも にしむら珈琲でも 日米珈琲でも uコーヒーでも 神戸にはコーヒー屋がなんでもあるやん!という怒り。そして今回のツリー。
    氷見に友達もいることから すっかり神戸がキライになりそうなとき そんな浅い次元ではなくもっと深く傷ついている人がいることを知り、ツイートを追いかけています。

    ちなみに ツリーを見に行きたいのですが ただいま絶賛介護中。
    震災のとき 地域の人のために1日に何度もリュックを背負ってフラワーロードの支援物資をもらいに行き、動きに動いていた母親も進行性の難病には勝てませんでした。
    特にこの1か月ちょっと 私のライフワークである朝30分の新聞配達と徒歩5分圏内のコンビニと郵便局以外には出かけてません\(^o^)/
    みなさんの臨場感あふれるレポートにさらなる怒りを燃やしています。

    Reply



  2. 純丘曜彰

    産経新聞が23日に有川浩の記事を出す。
    リンクさせろ、と体よく言ってきた。
    記者は、古野英明。
    こいつは昔から『情報大陸』の影の援護隊。
    http://kopiruakkun.blog.fc2.com/blog-entry-665.html?sp
    有川に、また、読者に、騙されるな、と、急いで伝えてくれ。

    Reply



  3. ウォンキー・プー

    いいな様、

    いいな様及び有志の皆様のツイッター毎日深く頷きながら拝読しております。皆様の忍耐強さ、この問題に関して自らの身心を削ってまで徹底的に追求しようとする固い意志にひたすら頭の下がる思いです。

    私の震災体験など当時一番の激震地におられた方々に比べれば本当に取るに足らないものに過ぎませんが、辛い思いに負けず正面からこの理不尽に向き合っている皆様方の投稿を見ていく中に、万が一お役に立つようであればこちらで発表して頂いてもいいと思うようになりました。もし宜しければご連絡下さい。但し全く大した体験ではありませんので、ご興味がなければこのままスルーして頂いても結構です。

    どうぞ皆様お疲れの出ませんように。そして少しでも心穏やかな新年が迎えられますように。

    Reply



    • iina-kobe

      ぜひ、よろしくお願いいたします!

      Reply


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