靖国神社って、戦争賛美の神社なの?

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靖国神社って、戦争賛美の神社なの?

2017-08-14

今年も終戦記念日が近づいてきましたので、昔、靖国神社やA級戦犯について書いた記事を記しておこうと思います。

靖国神社のおはなし2013.8. 16 発行 no.15

「首相は靖国神社に参拝するのか??」
お盆になると毎年騒がれますよね。何故なんでしょうね。
今回はそれを解説していきます。

靖国神社とは?

靖国神社とはどんな神社なのでしょうか。

靖国神社の元々の名前は、東京招魂社です。
明治12年に東京招魂社から靖国神社へと改称されました。

東京招魂社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争(徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃れた人達を祀るために創建されたものです。

後にアメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れて浦賀に来航した時に生じた国内の戦乱によって殉じた人達も合わせて祀るようになり、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために斃れた人達も祀るようになりました。

靖国神社に祀られている人は?

祀られている人は、当然、政府軍のみ(国のために戦った人)なので、戊辰戦争の新撰組や西南戦争の西郷隆盛など、政府の敵として死んだ人は祀られておりません

坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作・橋本左内といった歴史的に著名な幕末の志士達や、さらには日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満洲事変、支那事変、大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国家防衛のために亡くなられた方々の神霊が祀られてます

靖国神社に祀られているのは軍人ばかりでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属、文官、民間の方々も数多く含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人、軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々などの神霊も祀られています。
いまでいう中国、韓国、北朝鮮の人たちも祀られています。

その数は246万6千余柱に及び、英霊として祀られています。(死んだ人は「柱」と数えます。)

戦争犯罪者も祀られているの?

「大東亜戦争終結時に戦争犯罪人として処刑された方々」が、A~C級戦犯として祀られていると勘違いしている人がいるため、「犯罪者を祀るとは何事だ!」って一部の人が言ってます。
結論から言うと、靖国神社には戦争犯罪者は祀られてはいません。


説明します。

このA級戦犯やB級戦犯っていうのは、ロンドン協定により開設された極東国際軍事裁判所条例の第五条(イ)項の定義により決定された罪のカテゴリです。
class A 平和ニ対スル罪
class B 通例ノ戦争犯罪
class C 人道ニ対スル罪

この罪は、戦争の前にあった法律ではなく、この裁判用に戦争後に作った法律なのですね。

これは事後法です。
事後法っていってもなんのことかわからないので、簡単にたとえますと、

「ビール飲むのを法的に禁止します!破ったら罰金な!あ、あんた、10年前からビール飲んでるから今飲んでなくても罰金5000万円な!!!」
みたいな、当時は罪ではなかったものを、過去の行為にまでさかのぼって裁くという理不尽な法の事です。
新しく作った法律で、過去の行動を罰するって事です。

東京裁判では、今までなかった法律、平和ニ対スル罪、通例ノ戦争犯罪、人道ニ対スル罪を戦後に作って、それについて裁いたわけなんですね。
これは法治国家としては絶対にやっちゃいけない事なんですけど、やっちゃったんですね。

(ちなみに、このような「法令の効力はその法の施行時以前には遡って適用されない」という法の一般原則である法の不遡及(ほうのふそきゅう)を破った事後法は、東京裁判の極東国際軍事裁判所条例と、2005年の韓国の「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」があります。)

戦前までは、こんな法律なかったんですね。
戦争はどこの国もしていました。
アメリカなんか、広島、長崎に原爆を落としたのに、平和に対する罪でも、人道に対する罪でも裁かれてないわけです。

要は、日本を敗戦国として処罰するためだけの法律なわけです。
しかも、後付けの。

そしてこのA,B,Cってのは、ただのカテゴリなので、Aが一番罪が重い!ってものじゃないです。
何故か、いわゆるA級戦犯が一番悪い!みたいになっていますが、それは間違いです。
ただのカテゴリですから。

そして、たくさんの人が戦争犯罪者として、裁かれました。
この理不尽な裁判で裁かれた人たちは、すぐに靖国神社に祀られることはありませんでした。

そもそも日本では、死んで罪を償った人はもう罪を償ったので、犯罪者ではありません。
しかし、罪を償うために刑務所に入れられている人はまだ罪を償っていません。
日本国民は、この理不尽な事後法で裁かれ処刑になった人たちに対して、「死んでも死にきれない!かわいそうだ!」ということで、全国で、署名活動を始めました。
「どうか、この理不尽な裁判で裁かれた人の罪を許して、靖国神社に祀ってあげてください!」という署名活動です。
当時の日本の人口は8500万人ほどでしたが、署名は4000万人に達したと言われています。

こうした国民世論を受け、
1952年6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、
1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、
1953年8月3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が社会党を含めて全会一致で採択されました。

そして政府は関係各国の同意を得たうえで死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を釈放しました。

そして、靖国神社に「元戦犯者は罪を償って」祀られることになったのです。

その後、死刑となって罪を償っているA級戦犯(死刑及び獄中死の14名)も、1978年10月に昭和殉難者として靖国神社に合祀されました。

ゆえに、靖国神社に祀られている人は、もう戦争犯罪者ではないのです。

しかし、それらを理解できていない人々が多く、

A級戦犯を祀っている靖国神社に首相が参拝するとはどういうことだ!
戦争を賛美しているのか!

と、わけのわからないいちゃもんを、毎年のようにつけてくるわけです。

天皇陛下が靖国神社に参拝しないのはA級戦犯が祀られているから?

天皇のご参拝がなくなった経緯は時系列で示すと、
1945年 8月 終戦
45年11月 昭和天皇靖国参拝
48年11月 極東国際軍事裁判(東京裁判)判決
48年12月23日 東條英機 絞首刑(死刑執行)
48年12月24日 A級戦犯容疑者19名が釈放
50年 A級戦犯 重光葵(禁錮7年) 仮釈放
52年 4月 サンフランシスコ講和条約発効 
52年10月 昭和天皇靖国参拝
53年 8月 戦傷病者戦没者遺族等援護法改正(自由党・改進党・右/左派社会党 全会一致)
54年10月 昭和天皇靖国参拝
55年 7月 戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議(衆議院)
57年 4月 昭和天皇靖国参拝
58年12月 全ての戦犯受刑者が正式釈放
59年 4月 昭和天皇靖国参拝
65年10月 昭和天皇靖国参拝
69年10月 昭和天皇靖国参拝
75年 8月 三木武夫首相 参拝 
首相として始めて「私的参拝」と発言した事により憲法論議を招来する。
以後、朝日新聞をはじめとするマスコミなどで「私的・公的」「玉串料の支払」問題化。
75年11月 昭和天皇参拝

社会党が天皇陛下の参拝の「公私」について難癖をつける。(これ以降、天皇陛下の参拝が途切れる)

78年10月 いわゆるA級戦犯(死刑及び獄中死の14名)を昭和殉難者として靖国神社が合祀

85年中国が靖国参拝に対して抗議開始
86年 8月 中曽根首相が参拝断念
89年1月7日 昭和天皇崩御

となっています。

天皇が参拝をしなくなったのは、いわゆるA級戦犯がなくなる前で、社会党が難癖をつけたのが原因のような気がしますね。
そして、中国がいちゃもんをつけ始めたのは、A級戦犯の合祀から7年後で、「政治的な理由によるもの」です。

ちなみに、天皇陛下は毎年、例大祭の時に勅使を靖国へ送ってますし、
皇族も今でも交替でご参拝しています。

遊就館について

靖国神社に行った際には、その横にある遊就館にも足を運んでほしいと思います。
先の戦争の本当の歴史は、今の学校の歴史の教育ではほとんど触れることはありません。
なので、自分で勉強するしかありません。

明治15年に、日本で最初の軍事博物館として開館した遊就館は、その姿を変えながら、一貫して、殉国の英霊を慰霊顕彰すること、近代史の真実を明らかにすることを目的とし、いまもなお、多くの人が訪れています。

第一次世界大戦、大東亜戦争と、白色人種が有色人種をしいたげるという戦いが生じました。
近代国家成立のため、日本の自存自衛のため、更に世界史的にみれば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、日本はたくさんの国の力となりました。
それらの戦いにおいて、日本のために尊い命を捧げたのが英霊であり、その英霊の武勲、想いを語り継ぎ、英霊が歩んだ理由を後世に残しているのが遊就館の展示です。

ここには歴史上の人物がたくさん紹介されています。
大東亜戦争で特攻した、特攻隊などの遺書も数百展示されています。
パソコンもボイスレコーダーもない時代、自分の家族を守るために死んでいった若者の最後の文字がたくさんあります。
死にたくないのは当たり前。
しかし、死ぬのは嫌だ!と書いて死んだならば、残された家族は後悔します。
家族を後悔させないために、あえて自分は先に行くだけだ。
「靖国で会おう」と書く心境は、今となっては想像もできません。
なので、日本人ならば、せめて、自分の目で行って確かめてほしいと思います。

海軍少尉 齋藤幸雄命 20歳
何も思ひ残すことはありません。ただ、万歳あるのみです。
お母さん、きつと桜咲く靖国神社に来て下さいね。
いつまでも、元気でいて下さい。(絶筆)

陸軍歩兵曹長 久保田武命 33歳
和子よ、父は君国のため喜んで戦場の露と消えました。父は笑つて死にました。
父がこの世に残す思ひは、唯々お前のことだけなのですよ。
父なき後は、母の教へに従ひ、立派な女性となり、若くしてその夫を失へる不幸な母を、幸福にして上げなければいけません。
父の肉体はすでに無く、父の顔は永遠に見られぬけれど、父の霊魂は九段坂の上から、いつまでもいつまでもお前とお前の母の幸福を祈つて守つてをります。
お前の三歳の姿を、私の魂は抱き続けています。
再びいふ、母の訓へに従ひてよき女性となり、幸うすかりし汝の母への孝養を、汝の任務と知れ。
和子チャン 父
(徐州会戦にのぞまんとする時わが幼き児へ)

陸軍看護婦 山野清子命 19歳
十字星を窓から見て泣いた時、世に高いマニラの夕焼けにはるかな故国をしのび、帰りたくなつた時だつてあります。
幼い子を見る時、洋司を思ひ、また喜代子、英子と思ひが走ります。
年若くして国を離れる、これは、これからの長い清子の人生に大きな役をしてくれるでせう。
清子は身体の続く限り白衣の人として生きるつもりです。
ここは第一線だ、戦場だと働きがひを全身に感じ、すべてを忘れてしまひます。
清子は山野の家を代表した女の勇士です。
皆様に心配させるやうなことは致しません。身体の続く限り働きます。
靖国の宮で・・・・・。
皆様の御健康御多幸を祈ります。

最後に、

天皇御製 靖国へ

1962年(昭和37年)
『忘れめや 戦の庭に たふれしは 暮らしささへし をのこなりしを』
(忘れることができようか、戦場で倒れたのは、暮らしを支えていた男たちだったということを)

1986年(昭和61年)8月15日
「この年のこの日にもまた靖國のみやしろのことにうれひはふかし」


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