日本がおこなったアジア解放 パラオ編

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日本がおこなったアジア解放 パラオ編

2017-08-17

先の戦争を、日本の侵略戦争だった。という人がいます。
その人たちは、当時の日本が置かれた立場や、アジア諸国の立場を知らないからこういうことが言えるんだと思うんですね。
なので、パラオという国であった出来事を書いたメルマガを転載しておきます。

洋上に浮かぶ月

2015.4.10 発行 no.97 より加筆修正

パラオは親日国です。日本が大好きです。
それはなぜか?というと、日本人が水道や教育機関などのインフラを整備し、パラオの人々に教育と文化的な生活を与えたからです。

パラオはドイツの植民地だった

第一次世界大戦まで、アジアのほとんどの国は、イギリスやフランス、ドイツなどの列強国の支配下にありました。
パラオもスペインの植民地になっておりました。
お金の無かったスペインはドイツにパラオの土地を丸ごと売りました。
なので、第一次世界大戦前は、パラオはドイツの支配下にありまして、ドイツの植民地となっていました。

日本がパラオを委任統治した

ドイツはパラオの原住民には教育も施さず、搾取のみを行っておりました。
昔の植民地とは、住民を奴隷化し、無償で働かせるのが当たり前でした。
第一次世界大戦のとき、日本はドイツ軍をパラオから追い出してパラオを占領します。
戦後処理の行われたパリ講和会議で、パラオは日本が委任統治することになります。
委任統治っていうのは、パラオの人々が独自に国を守ることができるようになるまで、統治するっていう事です。
というわけで、たくさんの日本人がパラオに移住しました。

日本の統治が始まってから、日本はパラオに学校や病院、道路などのインフラを整備しました。
神社も作りました。
原住民に読み書きを教え、日本語による学校教育も行いました。
農業を教えたり、缶詰工場などをつくったり、道路を舗装したり、島々を結ぶ橋をつくったり、電気を通して電話もつかえるようにしました。
こうして、パラオの人たちは文化的な生活ができるようになりました。

なので、70歳を超えるパラオの老人にはいまでも、日本語が通じます。
モンダイ、スコウジョウ(飛行場)、チチバンド(ブラジャー)、バショ、ドブ、サシミ、ニツケ、シゴト、トーボー、ゴミ、ヤスミ、センキョ、デンワ、デンキ、アメ、ツナミ、タンジョウビ、ツカレナオス(ビールを飲むこと)、オイスィー(おいしい)、サビスィー(さびしい)などなど、現在のパラオ語になっている日本語もたくさんあります

現在のパラオの高校の教科書の歴史の部分には、こう書かれています。

「日本の教育の括目すべき効果のひとつは、授業の成績を重視することだった。生徒がどの氏族に属し、どんな身分なのかは無関係だった。」

日本人であろうと、パラオ人であろうと、平等に頑張った人を評価するシステムを取り入れていたんですね。

重要拠点としてのパラオ

第二次世界大戦が始まると、パラオは重要拠点となります。
パラオの島のひとつ、ペリリュー島には飛行場があり、ここが最重要拠点となりました。
1944年にはペリリューの戦いが行われ、アメリカ軍は第三艦隊約800隻の艦艇と、4万8千の兵力でペリリューを攻めました。
対する日本軍は歩兵1万2千人のみでした。

日本軍は、ペリリュー島が激戦地になることを予想し、島民に強制疎開、退避命令を出しました。

島を追い出されることを知り納得できない島民たちは、日本軍の隊長の元を訪れ、「自分たちも一緒に戦わせてほしい。」と言ったそうです。

日本の隊長は激高してこういったそうです。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!!!」

と。

島民たちは、「日本人は仲間だと思っていたのに、みせかけだったのか。。。」と、裏切られた想いで悔し涙を流しながら、空襲を避け、夜のうちに島を出ました。
日本人の見送りはいませんでした。

しかし、船が岸を離れたとき、日本兵全員が浜に走り出てきました。
先頭には激高していた隊長の姿があったそうです。
島に残る日本兵と船の上の島民は、日本の歌を一緒に歌い、日本兵は手を振って島民を見送ったのでした。

隊長が発した言葉は、島民を戦争に巻き込まないようにするためのものだったんですね。

ペリリューの戦い

アメリカ軍4万8千vs日本軍1万2千の戦いが始まります。
兵力は4倍。
航空機の数200倍。
戦車100倍。
重火器1000倍の戦いでした。

アメリカ軍が3日で攻略できるとしていたこの島ですが、アメリカは最初は苦戦しました。
アメリカは上空から絨毯爆撃を行い、上陸を試みます。
二度の上陸を阻止した日本軍も、弾も尽きて、とうとう上陸を許してしまいます。

岩の穴に隠れていた日本兵は、火炎放射器で焼かれました。
そして、アメリカ軍の侵攻から73日後、日本軍は最後の電文を本土に打ちます。
軍旗も機密書類も焼却しおえ、全滅したことを意味する最後の電文は「サクラ・サクラ」の六文字でした。

最終的に、日本軍はほぼ全滅。
一万人以上が死に、最後まで生き残ったのは34人でした。
アメリカ軍は1700人ほどが死にました。
日本軍が島民を逃がしたため、パラオのペリリュー島の民間人の死者はゼロだと言われています。

戦いを終えて

戦後、ペリリュー島に帰ってきた島民たちは愕然とします。
そこには一緒に学んで一緒に歌を唄った日本兵の死体が散らばっていました。
アメリカ兵は、アメリカ兵の遺体だけを整理していたので、日本兵の遺体だけが残されていました
島民たちは、日本軍の兵士の遺体をすべて埋葬してくれました

破壊された南洋神社も現地人と清流会によって再建されました。
南洋神社は、毎朝村人が集まり、日本海軍岡田中将から
「この美しいパラオを一日も早く自分たちの手で治めるようにせよ」
と訓示を受けた場所でした。

ペリリュー島には石碑があります。
そこには日本語と英語でこう刻まれています。

英語訳「この島を訪れるもろもろの国の旅人達よ。
あなたが日本国を通過することあらば伝えてほしい。
この島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を想うその心根を。。。」

日本語「諸国から訪れる旅人たちよ。
この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」


日本兵はパラオを植民地ではなく、日本だと考え、日本のために戦い、死んでいったのです。

パラオの独立

パラオの国旗は日本国旗にある太陽に照らされて洋上に輝く満月を表したものなのです。
満月を旗の中心に置くと、日本国旗に似すぎていて失礼だということで、満月は少しずらしてデザインされています。

1994年、パラオは独立します。
パラオが独立できたのは日本がインフラや教育を行ったからです。
アジアにはそんな国がたくさんあります。
だから、アジアの国には日の丸を模した国旗が多いんです。

1995年、パラオ独立一周年の日、各国が祝辞を送る中、日本だけはなにも送りませんでした。
パラオのナカムラ(中村)大統領は怒りと悲しみで激怒しました。
その時の首相は、村山富市氏でした。
これは、日本の屈辱の歴史だと思います。

ちなみに、2004年の10周年には小泉首相が祝電を送っております。

2013年には、安倍晋三首相がパラオ大統領と会談しております。

安倍首相、パラオ大統領と会談(リンク切れ)
安倍晋三首相は3日、パラオのレメンゲサウ大統領と首相官邸で会談した。
2014年が 日本とパラオの外交関係樹立から20周年に当たり、15年には福島県で「太平洋・島サミット」 が開かれることから、両国の連携を深めていくことで一致した。 

パラオは台風30号でインフラ被害を受けており、首相がお見舞いの言葉を述べた。
大統領は「日本の迅速な対応に感謝する」と表明、一層の支援を要請した。(2013/12/03-15:41)
外務省
レメンゲサウ・パラオ大統領による安倍総理表敬

2015年には天皇皇后両陛下がパラオをご訪問されています。

天皇皇后両陛下 パラオご訪問時のおことば
戦後70年に当たる本年,皇后と共に,パラオ共和国を訪問できましたことは,誠に感慨深く,ここにレメンゲサウ大統領閣下のこの度の御招待に対し,深く感謝の意を表します。
今夕は,私どものために晩餐会を催してくださり,大統領閣下から丁重な歓迎の言葉を頂き,ありがとうございました。
また,この訪問に合わせ,モリ ミクロネシア連邦大統領御夫妻,ロヤック マーシャル諸島共和国大統領御夫妻がここパラオ国を御訪問になり,今日,明日と続き,私どもと行動を共にしてくださることも誠にうれしく,心より感謝いたします。

なお,この度の訪問を前にして,ミクロネシア連邦を襲った台風の被害を耳にいたしました。
ここに犠牲になられた方々を悼み,御遺族へのお悔やみをお伝えするとともに,被害を受けた大勢の方々に心よりお見舞い申し上げます。
地域の復興の一日も早いことを念願しております。

ミクロネシア地域は第一次世界大戦後,国際連盟の下で,日本の委任統治領になりました。
パラオには,南洋庁が設置され,多くの日本人が移住してきました。
移住した日本人はパラオの人々と交流を深め,協力して地域の発展に力を尽くしたと聞いております。
クニオ・ナカムラ元大統領始め,今日貴国で活躍しておられる方々に日本語の名を持つ方が多いことも,長く深い交流の歴史を思い起こさせるものであり,私どもに親しみを感じさせます。

しかしながら,先の戦争においては,貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行われ,多くの人命が失われました。
日本軍は貴国民に,安全な場所への疎開を勧める等,貴国民の安全に配慮したと言われておりますが,空襲や食糧難,疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。
ここパラオの地において,私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し,その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。

また,私どもは,この機会に,この地域の人々が,厳しい戦禍を体験したにもかかわらず,戦後に慰霊碑や墓地の管理,清掃,遺骨の収集などに尽力されたことに対して心から謝意を表します。

ミクロネシア三国と日本との外交関係が樹立されてから20年以上がたちました。
今日,日本とこの地域との間では漁業や観光の分野を中心として関係が深まってきていることは誠に喜ばしいことです。
今後それぞれの国との間で一層交流が盛んになることを願ってやみません。

ここに杯を挙げて,パラオ共和国大統領閣下,令夫人,ミクロネシア連邦大統領閣下,令夫人,及び,マーシャル諸島共和国大統領閣下,令夫人の御健勝とそれぞれの国の国民の幸せを祈ります。

パラオ共和国大統領 トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア氏は、このような言葉を残しています。

親愛なる日本の皆様に
 
日本は第二次世界大戦終戦から今日に至るまでの年月で敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業・経済・文化など様々な分野において、世界のリーダーとして活躍されています。

そんな日本の皆様たちのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存じでしょうか
終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました
それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。
そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。

そんな私たちの国パラオは、世界でも類を見ないほど素晴らしい自然環境に恵まれた国です。
凍てつくような冬も、台風も、地震さえもない、常夏の楽園です。
そんな私たちの国パラオの自然環境を、世界中のどの国よりも日本の皆様方に味わっていただきたい
特にご高齢の方々や、心身に障害をお持ちの方々にご堪能いただきたい。
温暖で豊かな自然の中で心身共にゆったりと「癒し」を味わっていただきたい。
それが私たちパラオ人の真実の願いなのです。

かつて、統治というかたちで生じた日本とパラオとの交流。
それから数十年の歳月を経て、今度は民間レベルで、しかも「日本人の健康とパラオの自立」を目的として、その扉は開かれようとしています。
私たちはその活動の求心的存在である「日本パラオ国際交友協会(NP0)」の活動に、全面的な感謝と協力をお約束します。
そして、よりたくさんの日本のみなさまが、パラオにおいでいただけることを、心よりお待ちしています。

パラオ共和国大統領 トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア

ペリリューの戦いは、ドキュメンタリー映画にもなっているようです。

追憶

また、パラオにはパラオ本島とコロール島の間に日本のODAの無償援助で架けられた約200メートルの大きな橋があります。
この橋の名前は「Japan-Palau friendship bridge」といい、その名の通り日本とパラオの友好の掛け橋となるような思いが込められています。
この橋は、以前はKBブリッジと言いましたが、韓国の業者の手抜き工事により崩壊した橋を日本が無償援助で架けなおしたものなのです。

このように、日本とパラオは非常に仲の良い国なのですが、その一方で、琉球新報はこんな記事を載せておりますね。。。

パラオ 思い複雑。日本統治下、「三等国民」差別の歴史
未開な現地人を文明化し支配を受け入れさせることが日本語教育の目的
(琉球新報 8日-17)

ありえないくらいの反日ですね。。。


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コメント


  1. 汐先 雄治

    ねじまがった報道、これ日本人がやってるんですかね?
    反日側の何かの陰謀なんですかね?
    単なる馬鹿なんですかね?

    今の日本人は敬愛するべき隣人ではなく、嘆かれる奇人ですかね?

    Reply



    • iina-kobe

      歴史を知らない人が増えたんでしょうね。
      また、歴史を修正して自国のために使用しようとする国もたくさんありますね。

      Reply


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