サルでもわかる自民党の憲法改正草案 その3 (表現の自由のお話)

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サルでもわかる自民党の憲法改正草案 その3 (表現の自由のお話)

2017-08-04

サルでもわかる自民党の憲法改正草案 その1 (憲法第9条のお話)
サルでもわかる自民党の憲法改正草案 その2 (基本的人権のお話)からの続き

注意事項:私は生物学はかじっていますが、憲法学者じゃありません。
ものごとを時系列などをもとに整理して論理的に考える訓練はしてきましたが、あくまでも、「私が思う」論理的な解釈をしているだけなので、「ふぅん。」くらいの気楽さで読んでください。
また、間違いなどがありましたら、その旨教えていただければ随時改定していきます!

Contents

歴史も現状も知らない人は、現行の時代錯誤な日本語でない、アメリカが与えてくれた憲法が大好きなようで、改正草案に反対する人がたくさんいます。

第53回  自民党憲法改正案の本質 2012-05-23up

 自民党の憲法改正草案が発表された。
日の丸を国旗、君が代を国歌と定め、自衛隊を国防軍と位置づけるなど、従来からの主張を鮮明に打ち出している。
それはそれで大きな問題なのだが、私が一番気になったのは、基本的人権を守ろうとする姿勢が大きく後退していることだ

 例えば第21条は、
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
との現行規定に
「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない
という条文を追加したのだ。

 これだと権力者が「公益及び公の秩序を害する」と判断したら、表現の自由が許されなくなってしまうことになる。
ファシズムもはなはだしいのだ。

 第12条にも
「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」
と書かれている。

 結局、秩序優先公益優先で、権力者の意向次第で、国民の基本的人権は制約されるというファシズム極右の世界観が、この憲法草案の基本理念なのだ。

(略)

 もし、この自民党憲法改正草案が原案通り成立したら、橋下市長のハシズムは、何ら法律違反ではないことになってしまう。
 そうやって、日本は基本的な人権を失っていくのだ。
戦争で人命が失われることは、悲惨なことだ、しかし、それ以前に、集会、結社、言論、出版などの自由が失われることは、事実上命を失うに等しい苦痛を国民に与える。

 ファシズムの時代に戻るのか否か、日本人はいま大きな分岐点に立たされているのだ。
http://www.magazine9.jp/morinaga/120523/ (以前のリンク。リンク切れ)

これは森永卓郎っていういう人が書いた文章です。
彼の言っていることが本当なのかどうか、一つ一つ見ていきますか。。。

君が代、日の丸について

君が代、日の丸については、国である以上、国歌と国旗を定めるのは当たり前なので、それを定めただけですね。
国旗や国歌のない国なんてあるんでしょうか。。。
これに反対する人は、何がしたいのかわかりません。
君が代は天皇を崇拝する歌だ!とか言われても、なんで恋の歌なのに天皇を崇拝する歌になるのかわかりませんし、そもそも、天皇は日本の一番偉い人、むしろ、世界でも一番偉い人(ローマ法王と同格かそれ以上)なので、その人を崇拝するのがダメ!ってのも意味がわかりません。

憲法21条の改正案について

彼はまず、憲法21条の改正案について言及しています。

現在の憲法第21条は、

第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

です。
改正草案は、

第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。


前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、
認められない。


検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

です。

草案では、英語の文章を翻訳しましたよ!みたいな、「これ」とかいう不必要な日本語が削除してあります。
サルでもわかる自民党の憲法改正草案 その1 (憲法第9条のお話)参照)
そして2の部分に「公益及び公の秩序を害すること」が付け加えられています。

「公益及び公の秩序に反すること」じゃないです。「害すること」です。

ブログを書いた森永卓郎って人は、
権力者が「公益及び公の秩序を害する」と判断したら、表現の自由が許されなくなってしまう。

っていってます。
しかし、それは大きな間違いです。

公益及び公の秩序に「反すること」はやってもいいんです。

表現の自由ですから。

ただし、他人を「害する」ことをしちゃだめだよ!っていってるんです。

日本語のわからない人は、「反する」と「害する」を一緒こたにしちゃうから、

権力者が「公益及び公の秩序を害する」と判断したら、表現の自由が許されなくなってしまう。

なんていうわけのわからないことが言えちゃうんですね。

草案は、

「反対するのは自由。ただし、害する。ってのは、物理的なものなので、他人を害したら、そりゃ刑法によって裁かれるし、そんなことするのは禁止だよ!」

っていってるだけです。

この草案が、害するではなく、反するであった場合は、彼の主張は、まだ少しは正しいのかもしれません。
しかしながら、彼の主張は、「権力者がそう判断したら」っていう仮定の話がさらに続きます。
ぶっちゃけ、権力者がそんな判断はできないんですね。

何が公益で、なにが公の秩序を害するものなのか?の判断は、法律に基づく正当な手続きを経て行われているので、
時の権力者が勝手に決めることなどできないわけです。

なので、彼の言っていることは、ただのいちゃもんです。
なんの論理性もありません。

憲法12条の改正案について

次に12条について彼は

「結局、秩序優先、公益優先で、権力者の意向次第で、国民の基本的人権は制約されるというファシズム、極右の世界観が、この憲法草案の基本理念なのだ。」

と言ってます。

いや、そもそも、極右ってのは、現行憲法を守る保守のことであって自民党は憲法を変えようとしているのであって、左翼なんじゃ。。。
ってのはおいといて。。。

では、12条を見てみましょう。
現行憲法では

第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。
又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

自民党の草案では、

第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。
国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。

となってます。
草案では、21条と同様、「これ」という意味のない言葉を削除し、わかりにくい「公共の福祉」という言葉を、「公益及び公の秩序」に変えてます。

「公益」とは、「社会の利益」のことで、「公の秩序」とは「社会秩序」のことであり、平穏な社会生活のことを意味します。

個人が人権を主張する場合に、他人に迷惑を掛けてはいけないのは、当然のことです。
もし、他人に迷惑をかけてしまったら、その責任を取る義務が生じます。
これは当たり前ですね。
この当たり前のことをちゃんと規定しただけです。

森永氏の言うように、
「秩序優先、公益優先で、権力者の意向次第で、国民の基本的人権は制約される」
なんてことにはなりませんよね?
むしろ、どうやったら制約されるのか、聞いてみたいです。
どうやったらこんな妄想ができるのか、謎ですね。。。

こんなこと言いだしたら、現行憲法でも、妄想で、
「秩序優先、公益優先で、権力者の意向次第で、国民の基本的人権は制約される」
ってのはいえるんじゃないですかね。。。
なんで現行憲法については文句言わないんでしょうかね。。。
謎です。

義務と権利に関して

責任及び義務という文言が入ったおかげで、ツイッターでは、

「権利には義務が伴う」という言葉は存在する。
しかしこれは「権利を行使するにはます義務を果たせ」という意味ではなく、
「個人の権利は絶対だ。ゆえに国家はその権利遂行の為、法令整備などの環境を整える義務を負う」
という意味だ。

とかっていう人もいます。

義務と権利に関しては、簡単に言うと、ものを買うことと、お金を渡すことの関係です。
商品を買う権利は、お金を渡したら発生するのではなく、双方が納得してはじめて生まれます。

「これが欲しいんだけど、100円だすから譲ってください。」
といって無理やり100円を渡しても、売る側が、
「いや、これは500円するので100円では売りませんよ。」
といった場合、100円渡したからといって買える権利が発生しているわけじゃありませんし、売る側も売る義務が発生しているわけじゃないんですね。

あくまでも、双方の合意が必要なわけです。

上記のツイッターの人のように、
「個人の権利は絶対だ。ゆえに国家はその権利遂行の為、法令整備などの環境を整える義務を負う」という意味だ。
っていうのは、

「個人の権利は絶対だから100円出したんだから、国はその権利遂行のために、法整備を進めて500円相当のものを100円で売る義務を負うべきだ」

ってことになります。

んなこたあないですね。常識で考えればわかります。
500円のものが欲しけりゃ、500円出すのが当たり前です。

例えば、国は、子供が生まれたら出生届を出しましょう。っていう義務を国民に背負わせてます。
子供は、出生届を出してもらって初めて、基本的人権などの権利を得ます。

子どもが生まれても出生届すら出さない親が、

「子供がここに生きてるんだから最低限の生活を保証しろ!」

とかって権利を主張しても、出生届を出してないので戸籍にも載ってないので、権利は与えられないわけですね。

日本に住むには日本のルールを守らないといけないわけで、そのルール=義務なわけですね。

ってことで、みなさんが知りたいと思っているような憲法改正草案はざっと紹介しました。

最近は、日本語が読めない人が多くなってきました。。。
昔から何でしょうかね。。。
ネットとかが普及して、そういう人が目立つようになってきただけなんですかね。。。

なんで格差社会や貧富の差が激しい社会ができたのかなぁ?って考えたとき、私は、
論理的思考能力が足りてない人が増えたからだ。
と思っていたんですけども、
これ、そもそも、
論理的思考以前に、日本語の読解力や歴史、その他もろもろが絶望的な人がいるわけで、
論理的思考能力をつけさせる前に、日本語の勉強からしないといけないんじゃないかなぁ。
って最近思うようになってきました。

憲法は全部書き出したら結構な分量になるので、第何条がわからない!とかがありましたら、メールででもお知らせください。
そしたら、そこについてまた書いてみるかも。。。

*このブログは私のメルマガ「サルでもわかる自民党の憲法改正草案」2016.7.8発行 no.157を加筆修正して公開しております。


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コメント


  1. 通りすがり

    贈与契約により500円の物を所有する権利を得ても、500円を払う義務は生じません。
    逆に、2500円出しても思い出の品などを譲り受ける権利が得られるとは限りません。
    権利には義務が伴うというのは、双方の合意により成立した売買契約において、購入者の商品を得る権利には販売者の商品を渡す義務が伴い、販売者の金銭を得る権利には購入者の支払う義務が伴うということです。高額な商品を予約しておいて権利が不要になったから義務を果たさないなどと、違約金もなく一方的に契約を破棄してはいけません。
    出生届を出す義務を負っているのは原則として親で、それにより国に守られる権利を享受するのは子供です。赤ん坊に手続きを行う義務が課されたりしませんし、子供がどうなってもいいネグレクトの親なら出生届を出さなくていいというものでもありません。教育を受ける権利・受けさせる義務と同じです。
    500円の物を150円で売るようなことは弱者の人権を守るための社会保障制度として当たり前に行われています。憲法により、人権を保障すると合意が形成されているからです。そして、その差額分の負担は強者に課されます。病気で働けない無収入の人と健常な高所得者なら、大きな納税の義務を負うのは後者ですが、国から補助を受ける権利が与えられるのは前者です。
    義務を果たさなければならないのは、自らの権利を主張するためではなく、他人の権利を守るために必要なことだからです。だからこそ、権利のように軽々しくは放棄できません。一方で、権利を得るのに必ずしも何らかの義務を負う必要はありません。

    Reply



    • iina-kobe

      他者が果たした義務によって権利を得るという場合は、本人による意思決定ができない場合となっております。
      それ以外の場合、権利を得るのには本人が義務を果たすことが必要です。
      病気で働けなくなった無収入の人へは、それまで働いて支払っていた年金や保険が義務となり、権利として補償が認められます。
      未成年などの場合は親がその義務を負います。

      Reply



  2. ガリバル

    大変参考になりました、やはり安倍総理は間違っておりませんね。
    ありがとうございました。

    Reply



  3. 野獣先輩

    憲法と法律の違いは「名宛人」。法律の名宛人は国民。憲法の名宛人は統治権力。したがって憲法が国民に命令することはありえません。

    Reply



    • iina-kobe

      憲法が国民に命令することはありえません。っていうデマが広まっているのはなんでだろう?憲法に書かれている基本的人権なども国民は守らなくてもよいと考えているのかなぁ。ちょっとわかりません。

      Reply



  4. 名無し

    改正案21条2項に関しては絶対的禁止の緩和になっているのは確かなので、自由権の中核をなす表現の自由を改正するのはどうかと個人的には思います。
    現状、学説の紆余曲折を経た結果として一元的内在的制約説…すなわち、公共の福祉=「他者の人権」との折衝という人権の内的な観点でのみ制限されるとなっており、いわゆる「社会的、公的な関心事」によって制限されてはならないとなっています。
    ここの表現が変わることで社会全体の利益の為と言うだけで人権が制限されるという戦後の状況に後退しかねないので、分かりやすくするというだけで変えてはいけないのではないかと…

    Reply


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